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自分史 番外編 バイクティーン

番外編 バイクティーン

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バイクティーンでした 16歳になりすぐに免許を取りに 当時は 私の年代から125cc以下と それ以上という区分けで 小型 大型 でしたね 少し上の先輩たちは 軽四免許というのがあり 16歳で 取れた記憶がありました
 先輩にホンダの CS90 という 名車を借りて さんざん練習して 免許を取得 しばらくそれに乗っていましたが いいのがあるから これに乗れと 先輩が 持ってきたマシンが
1960年製 ホンダ CB72 高橋国光世界制覇記念モデルで 市販車と RSCレースマシンと 同出力でした 其の中でも 180度クランク ツイン SOHC タイプワン ギリギリまでのオーバーホール ハイカムシャフト 強化バルブ セパレートハンドルに レーサーシート バックステップ キャブトンマフラー とても公道を走れるマシンではありませんでしたが 保安部品をつけてもらい ハンドルを純正一文字ハンドルへ変更 箕面ドライブウェイの王者として君臨してました かなりなバンク角度があったように記憶しています  エンジンのデザインは ゼロ戦に積んであった 栄エンジンの冷却フィンに 似てましたね
180度クランクは 扱いにくいエンジンですが レース用としては 最適だったと思います
最後に乗ったバイクは ヤマハ TX-500 こちらも180度 高速性能 加速性能は 他の500cc クラスマシンの中では 群を抜いてポテンシャルは高かったですね 百キロからの加速は 一気にぶっ飛び状態でしたけど 今どきのモンスターマシンとは また違いますけど  世界GPでは 最高峰は 500ccですね

70年台の メーカー競争は ホンダが CB750 Kゼロを発表 最高速200キロ超えで カワサキが対抗して 500SSぶっ飛びマシンで2サイクルロータリディスクバルブ三気筒で じゃじゃ馬と言われてました 輸出名はサムライだったか ヤマハが TX-500 でした
そんな時代で ティーン最後期は バイクに明け暮れ トレールマシンも何台か乗り継ぎました
そんな頃に知り合いの 中古車屋さんに行った時 アルバイトしないか と言われて ゆくことになったのですが 其処が モトクロスチームの 本拠地で 頼み込んでチームに入れてもらいました 
箕面の王者ともいわれるぐらい早かったのですが 兵庫県三田の ヤマハのコースに初めて連れて行ってもらい コース二~三周で 全身ガクガク 躰こわばり このコースをぶっ飛ぶこの人達は なんなんだ と それがきっかけで モトクロス入門 ヤマハYZ125 77年式に 装備 全財産つぎ込んで 用意しました 86年まで 現役で 地方選手権 全日本走ってました
最高位は 関西選手権 ランキング五位でしたね 指定ゼッケン6 周りはツワモノ揃い 常勝者たち 横にいると 今日は場所が悪いなあなどと言ってました
 当時 地方選手権予選は 30台 10組 と言う激戦で まあ常勝者は決まってましたけど 決勝でいつも決まった顔ぶれで 熾烈な争いでした
35歳で 勝てないと諦めて 耐久レースへ転向して 舐めてかかって 惨敗 秋だったので 冬中 それ用のトレーニングを積み 翌年フル参戦
トレーニングは ラン マシン ですが 縄跳びが 二重跳び100回に 続けて 30分 最期に二重跳びをもう百回 これで 鉄人に生まれ変わりました
亡くなられた 歌手 河島英五さんも 走っておられて ランが 毎日30キロ と言われてました 7時間のレースを一人で走って チェッカー後 ガッハッハ と 笑った と言う話がありました 超人ですね
関西では 主なレースは 入門者用ガルルカップ年五戦 本気なヒト用イーグルカップ年五戦 地獄の関西耐久六時間レース年四戦 あとは 細かいのが 毎週あったようです まあ 関西耐久六時間レースは 普通の人は無理ですね 一度だけほとんど一人で走りましたけど 最後の三〇分で トップから 一二位に転落して チームから怒られましたけど 
イーグルカップは 二位 優勝 二位 リタイヤ(ブローでエンジン焼付き) リタイヤ(フレーム折れ)で ポイント獲得数で 年間シリーズチャンピオンになりました
スタートは ローリングですが シード選手なので 最後尾スタート エントリー375台 とかでした 一周 5.6キロほどのコース ローリングのスタート待っていたら 先頭の連中が 帰ってくるんですよ 入れんでしょ と 残り全車 一斉スタート がれ場や 崖では スタックしたマシンで 渋滞 待っていたら 先頭に出れないので バイパスを探して 崖を登ってジャンプ超えとか 酷いことをやってました スピード足りないと 失速して 崖の下転落とかね
 とにかく 三時間かけて 375台を抜いて トップに立たねば ですから 各コーナーで 五台ずつ ごぼう抜き とか 下りも 全開で ギャップだらけの崖ギリギリを下って抜き去ったり リズムを失うと 絶対に勝てないので 三時間 気を抜くことがないですね 一瞬でも気が抜ければ 病院のベッドが待っていましたから
91年 イーグルカップ 第二戦 一生忘れることがない 人生最高のレースでした
チーム 甲呑みレーシング 代表里中さん 事務局前田文子さん あとは 諸先輩方 若手 たくさんいましたねえ
この日のレース 事務局手配マシン 125ccクラスは 91年式だと 30馬力程度 ヤマハのセロー225は 唯一このクラスにエントリーできるマシンでした 非力で とても優勝できないからです まあ みなさん 馬力しか見てないんでしょうけど 耐久レースは 馬力だけでは勝てませんから
 セロー手配が手配ならず ヤマハのXT200 という セローの前身で リアサスが もクロスではなくて カンチレバー220ミリ フロントも同程度 馬力が 18馬力 なんともおそまつなマシンでした

どのレースもそうですが 受付と 車検があります そこで このマシンで走るんですかと言われて 軽く受け流し まあいいか と納得
サポート担当が 友人の 飯田弘 レース未経験 周回チェックも始めて 信頼度低いです メカ音痴 修理は自分でやるからまあいいんですけど 今の順位は ポジションは と言うサインは欲しいなあ
レイによって 最後尾スタート 三時間 無給油 ライダーも 無給油 地獄のレースです
二時間手前ぐらいで 飯田弘が パドックから駆け寄ってきました 二位に一分先行 怒鳴ってます


 普通サインボードは トップから 何秒遅れ あるいは 二位に 何秒先行 と書きます

F+15とか F-32 とか F+1分 ですね

確か先行 早いのが一台居る それを追いかけ回して まだ抜いてない と認識していたので 飯田が間違ってると思い 更に ペースアップ
レース終盤 2分半先行 と 駆け寄って怒鳴ってます そのままチェッカーを受けました
飯田が正しくて 優勝でした 司会者が この方 セローで優勝ですね と言ったので 会場はどよめいてました  本当は 更に非力で 足回りも最悪の XT200 だったんですけどね
当時の レースリザルトには 優勝 私 マシンは セローで 雑誌には掲載されてましたけど 自分では 偉業を成し遂げたと 一生の宝ものです 飯田 ありがとう!!お前のおかげやぞ あれから30年近く立ってるけど・・




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